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makie.nishikawa

Author:makie.nishikawa
2014年 BlissBaby マタニティ・産後ヨガ教師資格取得(24 時間)
2017年米国クリパルセンター公認ヨガ教師資格取得(200時間)
山の上のヨガルーム、Yoga Lantern(長野県御代田町)主宰。
2児の母。

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「好き」と、真ん中に集める力

こんにちは。
ヨガランタンのにしかわまきえです。

豪雨で日本各地甚大な被害が出ているようで
テレビをつけるたび、忘れていた自然の力を
思い知らされる毎日です。

一方で、わたし自身もここ一週間ばかり、身体を大きく壊していました。
忘れてしまうのですね、自分の中に潜む嵐の力を。
熱を出して、声が出なくなって、人に助けてもらって、
やっと自分の存在の小ささをまた思い出しました。


***

本日、仕事復帰。
やったー!!できたよ~!!
と叫びたいほど嬉しかった。
「もっとオネエ声なのかと期待していたんですが」
という優しい生徒さんの言葉をお土産にいただき、
かすれ声ながら、無事ひとつクラスができました。


そこで深く思ったのは
「…好きだった」
ということ。

あえてピンク色にしてみましたが、
わたしは仕事がこんなに好きだったんだなあ、と
再確認しました。

生徒さんから受け取るエネルギーが好きだし
自分が声を出して、空間が震えて、
何かが変わるというのも好きだし、身体の感覚が好きだし。

奇しくも、今日、朝の連ドラで主人公が「好きです」と言われていましたが
(皆さん、見てますか)

純粋に「好き」というのは、なんて清々しいことなのでしょうか。

漫画であれヨガであれ(※)長く続けていると、乗り越えるべきこと、
変わらなければならないこと、お金や時間との葛藤、
あれこれあれこれ余分なものが付きまといますが

※連ドラの話とごっちゃになっています。

「好きです」


いつまでもそう感じられれば、無敵だな。
そう思いました。


雑談、終了。ヨガの話。

S__109223945.jpg




「好き」という、純粋な愛というのは、何かに似ているなと思うのです。

シンプル。
大切なのは一つだけ、という感覚。
余分なものが何もない、という感じ。

それは身体的な言葉でいえば、
「丹田」
とか、
「呼吸」、
の感覚に近いと感じます。


ヨガを続けていると、自分の身体のセンターがわかってきます。
呼吸は、吐く息で、丹田(※)に戻ってくる、吸う息で外へ広がり
また吐く息で丹田に戻ってくる。

※おへその指三本位下にあると言われる人間の身体の中心点

身体の力は、丹田に集めていけば、ブレない。
片脚で立ったり、大きく後屈したり、
腕を大きくあげて重心が上へ上がりそうなときも、
丹田に力を集める。
そうすると身体を痛めないし、よぶんな力が抜けていく。


瞑想。

これも「好き」に似ていることの一つだと思います。


ひとつの場所、ものに意識を集めていく。
眉間でもいいし、呼吸でもいいし、鳥の声でもいいし。

しばらく10分くらいそのままの意識を保ってから
目を開けると、
風景が違って見えたりします。

「大切なものは一つだけでいいんだな」



そういう感覚が身体的にわかると、
ものごとの捉え方が変わります。
わたしは瞑想やヨガをしてから、目の前のごちゃごちゃに向き合うと
「なーんだ、これもこれもいらないね」と
心穏やかに対処することが出来ます。


…思えば、「病気」というのも、雑然としたものごとを削ぎ落し
「大切なことはなんだ」
というのをわからせてくれる、
素晴らしい自然現象なのかもしれません。


今日来て下さった方も言っていたのですが
「ヨガのあとは力が抜けて、寝てしまう」
とのこと。
喋るのも面倒くさくなってしまうくらいゆるゆるしてしまう、
という話も、よく聞きます。

うん、寝ます。
血行よくなって、頭がゆるんで。
喋るのも面倒くさくなるって、わかるなあ!と強く共感。


そんなに喋らなくたって、いいのかもしれません。本当は。
本当は、ゆるゆるとして、
風の吹くのを感じて、委ねてたら寝ちゃって、
起きたらスッキリして。

そしていつだって、新しく「好き」が身体の真ん中に集まってきて、
それが力の源になって
また少しずつ、歩きだせるのかもしれません。



*********************


読んでくださって、ありがとうございました。
皆さんの中にある純粋な「ひとつだけ」に想いを馳せながら

にしかわまきえ



















「腹式呼吸」ができるようになっていた

こんにちは。
Yoga Lanternのにしかわまきえです。

本日は、小諸市体育館での「健康の源」ヨガでした。
※7月からはクラス名が「気づきのヨガ」へと変わる予定ですが
内容はこれまでのクラスと同じです。


ずっと通ってくださっている生徒さんから
「日常生活のなかでふと気づいたら、腹式呼吸ができるようになっていた
と報告を受けて
本当に嬉しい気持ち=ギフトをいただき帰ってきたところです。

そういえば、この前のクラスでも
同じことを言っていた方がいました。
クラスの中でもともと胸で呼吸していたことに気づいて、
日常の中で練習していたら出来るようになった、と。

「腹式呼吸」

最近、Yoga Lanternのクラスでも話題に出ることがあるのですが
腹式呼吸ってなんでしょうか。

もっとも素朴で自然な疑問として

「どうして空気は肺に入るのに、お腹が膨らむのか」

というのがあります。
この前のクラスでも、「空気は肺に入りますよね?」と言ったら
「え??じゃあ、腹式呼吸ってなんなの??」
と聞いてくださった方がいて、
そこなんですよーといろいろお話しました。
答えは教室でどうぞ…(体を使わないと単なる小難しい話です、ググってみてください)


実は、世の中の多くの人が「腹式呼吸」という言葉は知っていても
自分の身体でそれを実感している人は
少ないのではないか、と日々の経験から感じています。


ここまで書いていくと、
「なぜ腹式呼吸が大事なのか」と聞きたくなる人もいるかもしれませんが
わたしは普段あまりそこには触れなくても良いと思っています。

もちろん、細胞レベルでは肺の全部を使って新鮮な酸素を血中にとりいれて
老廃物=二酸化炭素を完全に外に出す
大切さをうたうことはできると思いますが

しかし、多くの人が
「胸の呼吸だけだと苦しい、もっと深くしたい」
「呼吸が浅いと疲れやすい、もっと深く息をしたい」
「落ち着きたい、深呼吸したい」
…という焦燥のようなものを、感じているようだからです。

「これこれこうだから大事」
と理屈を言わなくても、
人間はもっと深く息を吸いたいと、身体感覚的にわかっているような
気がするのです。



わたしの場合などは、まさにそこからスタートしたヨガ人生でした。

マイコプラズマ肺炎にかかって1年治らず、
腹式呼吸どころか、胸にすらも入らず、首までしか息を吸えなかった。
いまだかつて
その時のわたしほど呼吸が浅い人には出会ったことがありません!
当然、疲れやすく、30段くらいの階段が登れなくて
茫然としていたのを覚えています。

だから、呼吸が浅いひとの気持ちに、人一倍共感します。
呼吸を深くしようとしても、できない気持ちもわかります。
お腹がかたいのは、ストレスなんだそうです。

でも、そんな私もできるようになったし、
生徒さんでも続けてくださると、出来るようになってくるんだ。
本当に嬉しいです。

深く呼吸ができると、安心します。
本当にほっとします。
自分自身のなかにある、愛に触れることができます。

でも、どうぞ今できなくても自分を責めないでほしいです。
あ、でも試しに責めてみてください(笑)。
責めると、責められた自分のお腹はますますかたくなってきます。
やってみてください。
心と身体がつながっていることを、呼吸は証明しているのです。

「呼吸が浅い」という気づき、
それは将来、自分のなかの本当の優しさに
触れるための大切なプロセス。
それすらも、生きているから味わえること。
だから、大切にしたいのです。

読んでくださって、ありがとうございました。


身体のよぶんな力みと、判断する心/クリパルヨガのOn the mat, off the mat①

こんにちは。
Yoga Lantern にしかわまきえです。

私が実践しているクリパルヨガは
ヨガのためのヨガ(ポーズを美しくとるとか)ではなく、
ヨガの知識や実践を生活に生かすことを大切にしている
ヨガです。

On the mat, off the mat

ヨガマットの上で起こっていることは、
基本的にマットの外=日常生活
でも起こっているという教えがあるのですが、

わたしの場合、日々、日々、生きているとしょっちゅう、
ああ、これもあれもヨガマットの上のあれだ、と
体験が日常生活とリンクしていることに気づきます。


たとえば。

立ちポーズで、しっかり足を踏みしめて両手を上げるとき。
肩や腕に、力が入ることがあります。
足(脚)の筋力はしっかり使ってないと立てないのですが
肩の力は使わなくても良いのに、入ってしまう。

「あ、チカラが入っているな」と気づいて、
抜いてみると、意識の力だけで意外と抜けることがあります。




こういう状態は、日常生活のなかですごくコレに似てる、
といつも思うのです。
たとえば…


声の大きい人=自分を表現でき、世の中で優位に立つ人。

とか、

ギャルっぽい人 =知的ではなく、異性へのアピールが強い人


とか、判断している時。


または、

キャラクターのもの =おしゃれじゃない、安っぽい、恥ずかしい、商売的

とか、

オーガニックなもの =素敵、健康に良い、環境に良い、平和的


とか判断しているとき。

で、好きとか嫌いとか、自分と同じタイプとか違うタイプとか、
判断して一線を引く。

その時の感じが、とても「よぶんな力み」と似ているな、と感じるのです。


人間の心(マインド)は過去の経験を参照しながら
生命が安全でいられるように常に監視しているわけだから、
そういう判断があるのは人間として正常なわけですが、

でも、あんまり行き過ぎると、それは「いらない力が入っている状態」となるんだな、
と常日頃感じています。



なので、日常の中で変に判断してるな、と気づいたとき、
その力をなるべく手放すように心がけています。

もちろん、なんでもかんでも、手放すわけにはいきません。
日常生活が、まわっていきません。
判断しないといけない時もある。


その「判断しなければならない時」が、
立ちポーズでどっしりしてなければならない、脚(土台)の力に相当しているのだと思います。

マットの上で毎日ポーズを実践していると、気づきが起こります。
その気づきが、深くなればなるほど、
ふだんの自分の生き方があぶりだされていきます。

最近は、生活のなかで「これはよぶんな力だな、偏見だな」と
瞬時に気づきが生じることがことが多くなり、
すごく生きやすいです。


「判断しない」
というスタンスで人の話を聞いていると、
話の内容というのは、その人の周辺情報であることが多く
本当に語られていることというのは別のことである
場合が多いんだなということに気が付きます。

怒りの後ろにある悲しみ
笑顔の後ろにある絶望
涙の向こう側にある希望

揺れ動く状況を、よいことも悪いことも、判断しないで見ている
練習を、日常のなかで行っています。

脚力があり、ハラに力が集まると、少々揺れることがあっても、軸に戻ってこられます。
マットの上の練習と、
マットの外の練習は
両輪だなと思っています。


読んでくださって、ありがとうございました^^