クリパル・ステージ2を受けて(2)
2013.09.28 16:17|ヨガと身体と生活の考察|
9/26に、ステージ2のクラスが終了しました。
何かが起こる予感はあったけど、
こんなことになるとは…
終わった翌日は、何を見ても心が世界に触れてしまい、
胸がぶるぶると震えて、何も手につきませんでした。
ただただ、学びたいと思って参加して、
その気持ちが満たされて幸せだった前半から
ちょっとずつ、モードが変わっていきました。
何かに触れ始めている、という漠然とした不安。
3日目。
9月19日、この日は満月でした。
しょっぱな、クラスはみんなのシェアリングで始まるのですが
この日は小さな波紋が起きたように感じました。
とにかく、ふっと空気が変わって、
そこから、ある方が勇気をもって発言してくれました。
自分がピュアではなかったこと、人の目を気にして理屈ばかり言っていたということを。
今日は感じたことだけを話そうと心に決めていたら、
震えが止まらなくなってしまった、と伝えてくれました。
クラスをリードするトシさんは、ステージのなかで
こんなことを言っていました。
「どう?こうやってシェアすることは学びになる?
自分に触れる感じがある?」
ステージ2に入って2日目あたりから、
私のなかでモヤモヤとした気持ちが湧いていました。
飛行機で快調に飛んでいたら、
なんだかあたりが霞んできて、霧の中。雲のなかに突入したこともわからない。
自分で説明もできないし、ただ不安で、
家でポーズをホールドしていると強いフィーリングが湧いてきて涙が出てしまう。
みんなのシェアが、心に響き、揺すられてしまう。
9/24のメモ。
「心がだいぶ動くようになっている。
自分の硬い殻がふやかされて、感覚を伝えるようになっている。」
9/26、新幹線のなかでのメモ。
「うまく喋れない。人と話すと緊張する。
内の世界と外の世界の交流がスムーズでない。
混乱している。
小さい頃から、内的世界だけがリアルだった。
外の世界…道順、ニュース、天気、スケジュール…
どうでもいいことだった。ただ慣れる努力をするだけだった。
いちどは内的世界を外に出そうとしたけど、
不発で、幸せだったけど、長くは続かなかった。
そのあと私は小手先で生きようとした。
笑顔をつくったり、ごまかしたり、キャッチフレーズで人を納得させたり。
それなりにうまくなったのかもしれない。
でも、たましいは悲鳴を上げていた。
子育ては、ガマンの連続。
自分を閉じ込めて、内の世界が見えなくなり、心が揺れなくなった。
それが、今、ゆすぶられている。
もっとゆすって壊してほしいという思いと、同時に不安な思い」
4日目。
私は最初のシェアリングの時間に、ファミリーグループの3人に伝えました。
今日の自分は、学べて楽しい、嬉しい、というテンションではない。
みんなのシェアリングを聞くなかで
過去の事が出てきてしまい、どうすればいいかわからない。
心が敏感になって、傷つきやすい。
でも心が硬いままで生きていくのはいやだから、
この経験を乗り越えたいと思います。
そんなようなことを言いました。
この日はいよいよ、みんなでセツバンダアーサナの
15分間のホールドを行います。
行う前に、心の研究。
心の傾向として
1、一般化 例)体の一部が辛いだけなのに全部だめ、と思い込む
2、断定 断定すると安心感を覚えるが、その先が開かれない
3、同一視 私たちはみんな~と同一視して言いたがる。主語は誰か?
エトセトラ。
エッジに入っていけば、心を知り始める。でも、
そこで出てきたものに圧倒されれば、そこにいられなくなり
止めてしまえば、「通過」できなくなってしまう。
だから「制感(プラティヤハーラ)」の練習が必要。
みんなでプラティヤハーラの練習として、瞑想をしました。
目を閉じて、まずは外の音だけに集中。
それから自分の呼吸だけに集中。
もう一度外の音に集中。
最後に、外の音と呼吸の音を、同時に感じとる。
このワークは、確か以前もやったことがあるのですが
このクラスの流れのなかで行ったことで
新しい意味が感じられるようになりました。
まず、外部の音。
工事の音。鳥の声。風の音。
風でカーテンレールが動く音。
シュッと引き寄せられる注意。鋭利な言葉でさっととらえる。
それから、外部の音を離れて、
呼吸の音に意識を向ける。
もわりとした静けさ。収縮する感じ。
また外の音へ。
すると、さっきと少し違う感じがする。
注意を引き寄せられた派手な音の間に、空気があり、
その空気の中には、小さな限りない音が
詰まっているような気がする。
何かを探し当てようと鋭くなっていた神経がゆるみ、
全体を受け入れいれたくなる。
それが心地よいと感じる。
その上で、呼吸の音に戻って、今度は外の音も同時に感じとる。
…もっと、この練習をしようと思いました。
「気づき」というのは、私にとって、楽しいもの。
意味があるように思えるもの。
けれど、それは言葉でとらえる限り、すごく限定的なものなんだ。
もっと、イメージを持とう。
それは私の心が、すごく必要としていることに思えました。
お昼ご飯を食べているときに、
内なるコドクを抱えている私に、みんなが声をかけてくれます。
「ここは安全だから、大丈夫」
背中をポンポンと叩いて。
涙がでました。
いよいよセツバンダアーサナの15分間のホールド。
もうこのあたり、ライブでしか味わえない感動があって
それをどう文章にしていいかわからないまま
時が過ぎていきましたが…
その日の自分のメモをほぼそのまま書くなら
セツバンダの最初から涙が溢れてきた。
理由は感じなかった。
でも、みんながホールドに耐えるために必死に声を出したりする
その様子が「出産」みたいで。
(自分が子どもを産むときに)帝王切開だった
その時の哀しみを思い出してうまくエッジに持っていけなくなる。
感情に流されそうになる。
でも必死にくらいついて脚をたてなおし、呼吸
…ウジャイ呼吸をした。
声はほとんど出さずに、エネルギーを内に閉じ込めようとした。
私は解放できないと感じた、みんなみたいに。
まだ(また)、出産できないのかもと思った。
でも私のアファメーション(※)は「私はありのままです」。
解放できなくてもいい、私は私のできることをする、と思った。
※自分を支えるために唱える肯定文。事前にみんな作っておいた
終わった後、周りの人も涙を流していました。
「なんでだろう、命を感じたからかな」と
話してくれました。
理由はそれぞれで、私と隣の人も、その隣の人も、ぜんぜん別々の人間。
考えたことも経験したことも何もかもが違う、べつべの個体。
でも、15分間のホールドが終わったときに
私のなかで大きな変化が起きていて、
それはそれまで感じていたコドクがすっかり消えて、
周りの人と確実につながっているという、一体感、安心感。
それが生まれている。
私と、「世界」とを隔てているのは何か?
今まで私が感じてき孤独とは、
孤立感とは、なんだったんだろう??
それははっきりと、今、この自分の胸の前にある一枚の薄っぺらい
壁のことだったのだということがわかりました。
下北沢からいつものように電車に乗って、
池袋に向かおうとすると奇妙な感覚に襲われました。
いつもなら気にも留めない大勢の人々。
この人も、この人も、今電車に乗ろうとしたこの人も、
私と繋がっているのだという感覚。
もっとヨガをしていきたいと思いました。
私にはずっともっと深く、ヨガを探求していく必要が眠っていると思いました。
「私は、まだ産めない」
自分の人生にやってきた言葉を、謙虚に受け止めていきたいです。
何かが起こる予感はあったけど、
こんなことになるとは…
終わった翌日は、何を見ても心が世界に触れてしまい、
胸がぶるぶると震えて、何も手につきませんでした。
ただただ、学びたいと思って参加して、
その気持ちが満たされて幸せだった前半から
ちょっとずつ、モードが変わっていきました。
何かに触れ始めている、という漠然とした不安。
3日目。
9月19日、この日は満月でした。
しょっぱな、クラスはみんなのシェアリングで始まるのですが
この日は小さな波紋が起きたように感じました。
とにかく、ふっと空気が変わって、
そこから、ある方が勇気をもって発言してくれました。
自分がピュアではなかったこと、人の目を気にして理屈ばかり言っていたということを。
今日は感じたことだけを話そうと心に決めていたら、
震えが止まらなくなってしまった、と伝えてくれました。
クラスをリードするトシさんは、ステージのなかで
こんなことを言っていました。
「どう?こうやってシェアすることは学びになる?
自分に触れる感じがある?」
ステージ2に入って2日目あたりから、
私のなかでモヤモヤとした気持ちが湧いていました。
飛行機で快調に飛んでいたら、
なんだかあたりが霞んできて、霧の中。雲のなかに突入したこともわからない。
自分で説明もできないし、ただ不安で、
家でポーズをホールドしていると強いフィーリングが湧いてきて涙が出てしまう。
みんなのシェアが、心に響き、揺すられてしまう。
9/24のメモ。
「心がだいぶ動くようになっている。
自分の硬い殻がふやかされて、感覚を伝えるようになっている。」
9/26、新幹線のなかでのメモ。
「うまく喋れない。人と話すと緊張する。
内の世界と外の世界の交流がスムーズでない。
混乱している。
小さい頃から、内的世界だけがリアルだった。
外の世界…道順、ニュース、天気、スケジュール…
どうでもいいことだった。ただ慣れる努力をするだけだった。
いちどは内的世界を外に出そうとしたけど、
不発で、幸せだったけど、長くは続かなかった。
そのあと私は小手先で生きようとした。
笑顔をつくったり、ごまかしたり、キャッチフレーズで人を納得させたり。
それなりにうまくなったのかもしれない。
でも、たましいは悲鳴を上げていた。
子育ては、ガマンの連続。
自分を閉じ込めて、内の世界が見えなくなり、心が揺れなくなった。
それが、今、ゆすぶられている。
もっとゆすって壊してほしいという思いと、同時に不安な思い」
4日目。
私は最初のシェアリングの時間に、ファミリーグループの3人に伝えました。
今日の自分は、学べて楽しい、嬉しい、というテンションではない。
みんなのシェアリングを聞くなかで
過去の事が出てきてしまい、どうすればいいかわからない。
心が敏感になって、傷つきやすい。
でも心が硬いままで生きていくのはいやだから、
この経験を乗り越えたいと思います。
そんなようなことを言いました。
この日はいよいよ、みんなでセツバンダアーサナの
15分間のホールドを行います。
行う前に、心の研究。
心の傾向として
1、一般化 例)体の一部が辛いだけなのに全部だめ、と思い込む
2、断定 断定すると安心感を覚えるが、その先が開かれない
3、同一視 私たちはみんな~と同一視して言いたがる。主語は誰か?
エトセトラ。
エッジに入っていけば、心を知り始める。でも、
そこで出てきたものに圧倒されれば、そこにいられなくなり
止めてしまえば、「通過」できなくなってしまう。
だから「制感(プラティヤハーラ)」の練習が必要。
みんなでプラティヤハーラの練習として、瞑想をしました。
目を閉じて、まずは外の音だけに集中。
それから自分の呼吸だけに集中。
もう一度外の音に集中。
最後に、外の音と呼吸の音を、同時に感じとる。
このワークは、確か以前もやったことがあるのですが
このクラスの流れのなかで行ったことで
新しい意味が感じられるようになりました。
まず、外部の音。
工事の音。鳥の声。風の音。
風でカーテンレールが動く音。
シュッと引き寄せられる注意。鋭利な言葉でさっととらえる。
それから、外部の音を離れて、
呼吸の音に意識を向ける。
もわりとした静けさ。収縮する感じ。
また外の音へ。
すると、さっきと少し違う感じがする。
注意を引き寄せられた派手な音の間に、空気があり、
その空気の中には、小さな限りない音が
詰まっているような気がする。
何かを探し当てようと鋭くなっていた神経がゆるみ、
全体を受け入れいれたくなる。
それが心地よいと感じる。
その上で、呼吸の音に戻って、今度は外の音も同時に感じとる。
…もっと、この練習をしようと思いました。
「気づき」というのは、私にとって、楽しいもの。
意味があるように思えるもの。
けれど、それは言葉でとらえる限り、すごく限定的なものなんだ。
もっと、イメージを持とう。
それは私の心が、すごく必要としていることに思えました。
お昼ご飯を食べているときに、
内なるコドクを抱えている私に、みんなが声をかけてくれます。
「ここは安全だから、大丈夫」
背中をポンポンと叩いて。
涙がでました。
いよいよセツバンダアーサナの15分間のホールド。
もうこのあたり、ライブでしか味わえない感動があって
それをどう文章にしていいかわからないまま
時が過ぎていきましたが…
その日の自分のメモをほぼそのまま書くなら
セツバンダの最初から涙が溢れてきた。
理由は感じなかった。
でも、みんながホールドに耐えるために必死に声を出したりする
その様子が「出産」みたいで。
(自分が子どもを産むときに)帝王切開だった
その時の哀しみを思い出してうまくエッジに持っていけなくなる。
感情に流されそうになる。
でも必死にくらいついて脚をたてなおし、呼吸
…ウジャイ呼吸をした。
声はほとんど出さずに、エネルギーを内に閉じ込めようとした。
私は解放できないと感じた、みんなみたいに。
まだ(また)、出産できないのかもと思った。
でも私のアファメーション(※)は「私はありのままです」。
解放できなくてもいい、私は私のできることをする、と思った。
※自分を支えるために唱える肯定文。事前にみんな作っておいた
終わった後、周りの人も涙を流していました。
「なんでだろう、命を感じたからかな」と
話してくれました。
理由はそれぞれで、私と隣の人も、その隣の人も、ぜんぜん別々の人間。
考えたことも経験したことも何もかもが違う、べつべの個体。
でも、15分間のホールドが終わったときに
私のなかで大きな変化が起きていて、
それはそれまで感じていたコドクがすっかり消えて、
周りの人と確実につながっているという、一体感、安心感。
それが生まれている。
私と、「世界」とを隔てているのは何か?
今まで私が感じてき孤独とは、
孤立感とは、なんだったんだろう??
それははっきりと、今、この自分の胸の前にある一枚の薄っぺらい
壁のことだったのだということがわかりました。
下北沢からいつものように電車に乗って、
池袋に向かおうとすると奇妙な感覚に襲われました。
いつもなら気にも留めない大勢の人々。
この人も、この人も、今電車に乗ろうとしたこの人も、
私と繋がっているのだという感覚。
もっとヨガをしていきたいと思いました。
私にはずっともっと深く、ヨガを探求していく必要が眠っていると思いました。
「私は、まだ産めない」
自分の人生にやってきた言葉を、謙虚に受け止めていきたいです。