3)これが自己受容か、という気づき
2017.06.16 12:50|クリパルヨガTTを受けて|
5週間のKYTTプログラムのなかでは、
ときどきプラクティス・ティーチ(以下PT)というのがあり、
そこで実際にヨガ指導の練習をする場を提供してもらえます。
たとえばPT1は30分間、PT2は45分間、というぐあいに
そのときどきで時間が異なり、
与えられる課題も、生徒の数も違います。
これが5週間でたった4回しかないので、真剣勝負。
私は依然として鼻息荒く、
習ったことは全部消化しよう、時間配分もしっかり頭に入れて、
チャレンジすることもこれとこれとこれ、
必ず実行、と息まいていたように思います。
…しかしながら、PT2の後、
そんな自分に気づかされることになりました。
余談ですが、
クリパルヨガのワークショップなどを受けると必ず
体験だけではなく、そのシェアリング(感じたことなどを互いにシェアする時間)
がセットとしてついてきます。
このTTにおいてももれなくシェアリングの時間があり、
PTの終了後には、本当に、本当に、丁寧に
教師としての体験、生徒としての体験を
お互いにシェアしていきます。
たとえば、生徒は教師にたいし、自分の体験をこんなふうにシェアしていきます。
「良かったと感じたところは、
声のトーンが落ち着いていて安心できたところ。
可能性を感じたのは、プレスポイントを
ハンズオンアシストしてくれたらもっと力強い体験だったと思う」
私がはじめてこのシェアリングの醍醐味を感じたのは
およそ10年くらい前に「フェニックス・ライジング・ヨガセラピー」
を受けた時のことだったと思いますが、以後変わらず、
このスタイルがものすごく心地いいです。
最近はシェアばやりですが、その当時は日本でシェアという言葉が
それほど流通しておらず、、、
とても新しかったのを覚えています。シェアっていいな!と。
でもFacebookなどでのシェアっていうのと、クリパルヨガで行うシェアは、
ちょっと意味合いが違うなあと感じていますが。
余談でした。
さて、そのようにして、わたしも教師としてPT2を終了し、
生徒役のみんなの前でシェアリングの時間をいただきました。
いただいた、と言いたくなるほど貴重な時間!
PT2で私は、
〇最初、自分の言葉が走っていることに気づいたこと
〇それは生徒役の仲間の目を見たときに、批判されているように感じたために
早くその時間を通り過ぎたいと思っていた
〇その批判は、実は自分が自分に対して批判をしていた、それに気づいたこと
などをシェアしました。
アシスタントに入ってくれていた柏木文さん
が聞き手になってくれていたのですが、文さんから質問がありました。
「これからどうしたらいいと思いますか?」
私:「もう少し自分を受け入れてあげないとな、と思います」
さらに文さんから、鋭い質問。
「それは、批判している自分自身も受け入れるということですか?」
私:「……」
批判している自分自身…ああ、あれ?あの人も私なの?
私:「すみません、ちょっと混乱してます…」
と返答するのが精いっぱいで、そのまま私はその混乱をお土産として
その日は千葉の実家に帰りました。
批判している自分も、自分。
その自分を受け入れるには、どうしたらいいんだろう?
だめだだめだ、といつも自分を戒めている、日常生活でもその傾向がありました。
その傾向には気づいていて、ああ、まただめだって思ってるなって
それにも気づいてました。
でも、じゃあ、本当に自分をすべて受け入れるには
どうしたらいいんだろう?
要するに、だめだだめだ、と批判している自分を、ダメだからと言って
また批判してしまっては、批判のループは止まらない訳で。
ものすごく矛盾する話なのですが、
「だめだ自分!」と思った瞬間、そう思った自分を、「いいよ、だめだって思ってもいいんだよ」
って、受け入れなければ、永遠にだめだだめだと批判し続けるしかないのではないか。
…ということに、気づいたわけです。
自己受容。
ああ、これがウワサの。笑
よく聞いたことがあります、知ってます。
でも、わたしは、はじめて、それを体験として、やっと理解しはじめていました。
人に話すとき、特に大勢の前で喋らなけれないいけないとき、
いろいろな自分がでてきます。緊張でプラーナが高まって。
かんではダメだ、順序だててわかりやすく話せるように、
傲慢にならない優しい話し方で、
相手に緊張していることがばれないように…etc。
そんなときに、そういう「ねばならない」でいっぱいの自分を
少し離れたところから見て、ほんとーーに一瞬、ぱっと閃光が走るように
一瞬起こる批判のまなざしをとらえて、
わたしはそれを「ゆるしで包み込む」練習をしていきました。
自分を、ゆるす。
いいよ、って本当に心から言ってあげる。
そうすると、どうなるか。
安心するのです。あたりまえなんだけど。
わたしがわたしにいいよ、って言ってもらえると、
とても安心する。
そしてリラックスできる。
ほんとうに、バカみたいだなーと思います、愛をこめて、自分に。
すべてをパーフェクトにやらないと怒られる、批判される、
何をやってもダメだと言われる、
だから自分を厳しく叱咤激励しなければならない。
緊張でがっちがち、
ぜーんぶ、そんな自分が出ていた。
私が思っていたようなようなやり方では、実は世界は動いていなかったのかもしれない。
そのことに、やっと気づきはじめていました。
~~~~ ~~~~~ ~~~~~
山の上のヨガルーム Yoga Lantren
月間スケジュールはこちら
ときどきプラクティス・ティーチ(以下PT)というのがあり、
そこで実際にヨガ指導の練習をする場を提供してもらえます。
たとえばPT1は30分間、PT2は45分間、というぐあいに
そのときどきで時間が異なり、
与えられる課題も、生徒の数も違います。
これが5週間でたった4回しかないので、真剣勝負。
私は依然として鼻息荒く、
習ったことは全部消化しよう、時間配分もしっかり頭に入れて、
チャレンジすることもこれとこれとこれ、
必ず実行、と息まいていたように思います。
…しかしながら、PT2の後、
そんな自分に気づかされることになりました。
余談ですが、
クリパルヨガのワークショップなどを受けると必ず
体験だけではなく、そのシェアリング(感じたことなどを互いにシェアする時間)
がセットとしてついてきます。
このTTにおいてももれなくシェアリングの時間があり、
PTの終了後には、本当に、本当に、丁寧に
教師としての体験、生徒としての体験を
お互いにシェアしていきます。
たとえば、生徒は教師にたいし、自分の体験をこんなふうにシェアしていきます。
「良かったと感じたところは、
声のトーンが落ち着いていて安心できたところ。
可能性を感じたのは、プレスポイントを
ハンズオンアシストしてくれたらもっと力強い体験だったと思う」
私がはじめてこのシェアリングの醍醐味を感じたのは
およそ10年くらい前に「フェニックス・ライジング・ヨガセラピー」
を受けた時のことだったと思いますが、以後変わらず、
このスタイルがものすごく心地いいです。
最近はシェアばやりですが、その当時は日本でシェアという言葉が
それほど流通しておらず、、、
とても新しかったのを覚えています。シェアっていいな!と。
でもFacebookなどでのシェアっていうのと、クリパルヨガで行うシェアは、
ちょっと意味合いが違うなあと感じていますが。
余談でした。
さて、そのようにして、わたしも教師としてPT2を終了し、
生徒役のみんなの前でシェアリングの時間をいただきました。
いただいた、と言いたくなるほど貴重な時間!
PT2で私は、
〇最初、自分の言葉が走っていることに気づいたこと
〇それは生徒役の仲間の目を見たときに、批判されているように感じたために
早くその時間を通り過ぎたいと思っていた
〇その批判は、実は自分が自分に対して批判をしていた、それに気づいたこと
などをシェアしました。
アシスタントに入ってくれていた柏木文さん
が聞き手になってくれていたのですが、文さんから質問がありました。
「これからどうしたらいいと思いますか?」
私:「もう少し自分を受け入れてあげないとな、と思います」
さらに文さんから、鋭い質問。
「それは、批判している自分自身も受け入れるということですか?」
私:「……」
批判している自分自身…ああ、あれ?あの人も私なの?
私:「すみません、ちょっと混乱してます…」
と返答するのが精いっぱいで、そのまま私はその混乱をお土産として
その日は千葉の実家に帰りました。
批判している自分も、自分。
その自分を受け入れるには、どうしたらいいんだろう?
だめだだめだ、といつも自分を戒めている、日常生活でもその傾向がありました。
その傾向には気づいていて、ああ、まただめだって思ってるなって
それにも気づいてました。
でも、じゃあ、本当に自分をすべて受け入れるには
どうしたらいいんだろう?
要するに、だめだだめだ、と批判している自分を、ダメだからと言って
また批判してしまっては、批判のループは止まらない訳で。
ものすごく矛盾する話なのですが、
「だめだ自分!」と思った瞬間、そう思った自分を、「いいよ、だめだって思ってもいいんだよ」
って、受け入れなければ、永遠にだめだだめだと批判し続けるしかないのではないか。
…ということに、気づいたわけです。
自己受容。
ああ、これがウワサの。笑
よく聞いたことがあります、知ってます。
でも、わたしは、はじめて、それを体験として、やっと理解しはじめていました。
人に話すとき、特に大勢の前で喋らなけれないいけないとき、
いろいろな自分がでてきます。緊張でプラーナが高まって。
かんではダメだ、順序だててわかりやすく話せるように、
傲慢にならない優しい話し方で、
相手に緊張していることがばれないように…etc。
そんなときに、そういう「ねばならない」でいっぱいの自分を
少し離れたところから見て、ほんとーーに一瞬、ぱっと閃光が走るように
一瞬起こる批判のまなざしをとらえて、
わたしはそれを「ゆるしで包み込む」練習をしていきました。
自分を、ゆるす。
いいよ、って本当に心から言ってあげる。
そうすると、どうなるか。
安心するのです。あたりまえなんだけど。
わたしがわたしにいいよ、って言ってもらえると、
とても安心する。
そしてリラックスできる。
ほんとうに、バカみたいだなーと思います、愛をこめて、自分に。
すべてをパーフェクトにやらないと怒られる、批判される、
何をやってもダメだと言われる、
だから自分を厳しく叱咤激励しなければならない。
緊張でがっちがち、
ぜーんぶ、そんな自分が出ていた。
私が思っていたようなようなやり方では、実は世界は動いていなかったのかもしれない。
そのことに、やっと気づきはじめていました。
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